はすじのさと

だべりばこ

『ぬるめた』6巻 読書感想文 - これからの「日常」の話をしよう

要旨

・日常系作品は本来「社会的評価から離れたなにげない価値」を素朴に肯定してきたが、令和の状況では現実や社会からの視線を無視できなくなっている

・『ぬるめた』は、日常系の「身内ノリ」を社会から見た違和感、異常な存在として描き、その対比によって日常系の価値を更新している

・6巻は、日常系とそれ以外との断絶、日常系の異常さを突きつけつつ、それでも日常系を選び肯定することを描いた最高の巻だった

 

まえがき

本記事では、前半に現代の日常系作品の流れについて軽く触れたあと、後半にその潮流のなかで発表された『ぬるめた』6巻の内容について感想を書きます。あまりにも良い作品でした。

※後半部分には『ぬるめた』のネタバレを含みます。読んでない人は前提のところを読んでいっていただけるとよろこびます。そこで興味をもって、6巻だけでも読んでいただいたら、も~っと!よろこびます。

最高の漫画

 

 

「日常系」が直面している状況

「日常」と「社会」

まず、日常系全般の話をしたいと思います。

 

日常系作品の主題としてよく言われるのは、「なにげない日常のありがたみ、尊さ」でしょう。萌えで成形されたキャラクターたちの、大きな事件の起こらない、平穏で平凡な日常。そこからオタクは、現実とは違うフィクション空間の日常に対して「人生」「生きがい」と思い、心を救われています。

これを少し拡大して、「私たちになにを投げかけてくれているのか?」という目線でとらえると、日常系作品の主題は「社会的な評価や価値判断から離れて、自らの生活のなかに小さな奇跡、ありがたみ、生きる力を見出すこと」となります。

日常系作品を見たことがある人なら、「自分たちにしか伝わらないような、社会的には取るに足らないようなものに価値を見出して、それを共有し笑い合う」シーンに思い当たりがあるのではないでしょうか。『ゆゆ式』の情報処理部の活動、ならびに「なんつってっつっちゃった」という言葉で盛り上がるシーンなどはわかりやすいかもしれません。はたから見たら意味が分からない、でも当人たちにとってはかけがえのない時間がそこに流れています。私たちにも......というのが、私の考える日常系作品が持っている主題であり、日常系作品が私たちに授けてくれる「生きる力」です。

 

一方で、今言ったように、この力が「社会的な評価」を得られるものではない、現実的な目線に照らして取るに足らないものであることも、また事実です。たとえば「けいおん!」は、演奏がうまくなるとか、コンクールで賞をもらうとか、そういう観念から離れた場面にあらわれる音楽の価値を教えてくれますが、それはすなわち、そうした価値が「社会」に理解されるものではないことを示します。もちろん理解されなくてよいのですが、それはそうと、理解されていませんよ、という「目線」自体はこの世に存在するものです。

日常系作品の多くは、この目線であったり、社会で生きていくための手段であったり、「将来」であったりを意図的に排除しています。それは妥当なことで、せっかく「生きる力」を手に入れたというのに、「だからそれじゃ生きていけないって!」という冷や水を浴びせられるのはしんどいことです。フィクションの力というリソースを、現実性や社会性、課題意識の排除に割いているのが、多くの日常系作品の構造です。

 

(そもそも、なぜ2000年代に日常系が流行ったのかといったら、アニメを見ているオタクが「現実や日常は厳しく、生きる価値がないので、虚構を楽しもう」と思っていたところに「なにげない日常にも奇跡や価値があるんだよ」という考え方を(萌えというフィルターを通しつつ)クリティカルヒットさせたところがあるので、こういう作品がまっとうな「社会」にとって意味が解らないものなのは当然ともいえます)

 

世知辛い時代、令和

さて、現代の作品はそうもいきません。というのも、いろんな要因によって、「そういうことから目を背け続けるのって違うかもしれない」という感覚というか、潮流というか、モードみたいなものが広がっていったからです。

この広がっていった過程だの原因だのを全部書いていくとぬるめたの7巻が発売されてしまうので省略しますが、ざっとまとめると、

 

・災害や疫病などによって、なにげない日常というもののリアリティが下がった

・純粋にジャンルが育って、さまざまな形の作品が出てきた

・アニメ・漫画がより多くの人々が楽しむものになり、日常系というジャンルが、オタクカルチャー全体に対して占める面積が小さくなったことで、ジャンル自身の構造に目を向けざるを得なくなった

 

あたりが考えられます。このなかのどれかについて、これが大きい理由なんだ!みたいなことは言えないですが、こうしたことが複合的に起こることによって、ありふれた日常、なにげない日常をただただ描くための「排除」は難しくなった、ということは言えると思います。今までのように、ただ単に現実を排除し続け、なにげない日常を描き続けるだけではなくて、もっと複雑に、もってまわった形で「日常」を意味づけなくてはいけなくなったのです。令和は世知辛い時代です。

 

【追記 2/1 0:30】
こうした考えについては、こちらの記事で触れられています。筆者も多大に参考にしましたので、興味のある方は読むととてもおもしろいと思います。

worldend-critic.com

 

【追記ここまで】

 

さまざまな作品がこの難題に挑戦しています。

ストーリー性をもち、明確な目標や成長の論理を取り入れることで、従来とは主軸が変わるけれども、日常の意味づけを担保した作品。
(『NEW GAME!』や『ぼっち・ざ・ろっく!』など)

シーンや台詞を反復し、時間経過によって変わらないもの、変わりゆくものをノスタルジックに表現している作品。
(『ご注文はうさぎですか?』など長寿作品として安定した作品に多い)

そして、従来排除されていた、社会的な評価、現実的な目線をあえて描き出すことによって、その対比で「わたしたちの」日常の価値を肯定してくれる作品です。

(『CITY』のえっちゃん-まつりの話、『ななどなどなど』など、そして『ぬるめた』

『CITY』も日常系全体から見て重要な作品だったように思います
まつりの「面白いほうと面白くないほう、どっちがいい?」という問いかけには痺れました

 

やっと『ぬるめた』の話ですが、まだ6巻より前の話

ここまで(と『ぬるめた』の6巻を)読んでくれた読者の方は、どこかで「だから『ぬるめた』の話がしたいのね」となんとなく感じたかもしれません。6巻範囲が私にブッ刺さったのはまさに「そこ」で、もともと連載時から刺さってたのですが、間あいだに挟まれる追加イラストで刺さった剣を念入りにぐりぐりぐり~~ッとされました。

 

『ぬるめた』の基本的な人間関係は、実に日常系のスタンダードな形に近いです。変なの(活発女子型アンドロイド)変なの(不登校気味陰キャ天才女子)変なの(髪に魚がくっついているクールミステリアスみたいな顔の女子)変なの(自らを常識人だと思い込んでいる一般限界オタク)がいて、変なことをして身内ノリでバカウケしています。この「身内ノリ」というのが肝で、『ぬるめた』では、いままでの日常系の再解釈をした結果「あれって要は今で言う身内ノリだよね?」という出力がなされているのです。見たことのあまりないキャラクター設定なはずなのに、どこか昔の日常系のような味がし続けるのは、ここの翻訳が非常にうまくいっている証です。いまや少数派となりつつある「自分のことを自虐を込めてオタクと呼んでいる層」にドンズバ刺さるキャラ設定になってもいます。

 

ここから言えることがあります。適切な表現が思いつかないので、すこしラフな言葉を使います。

つまり『ぬるめた』は、「日常系の独特な論理って社会的に理解されないよね」ということを、「こういう層のオタクって社会的にまともな人たちには意味わからんよな」という認識とリンクさせているわけです。

あと中学時代からネトゲにずぶずぶだったり昼夜逆転してたり正月からサンドボックスゲームやり続けて始業式すっぽかしたりと散々な感じなのも、「日常系のやつらって変だよな?」を構造から補強してくれています。

さらに、従来の日常系と比べて、「メインキャラクターたちのグループに属さない一般クラスメイト」の描写が丁寧です。あとで感想を述べる6巻範囲はこの結実なわけですが、これが上に述べた「社会的な評価、現実的な目線」を表現するための描写なのです。一般クラスメイトの面々はいわゆるハイカースト、社会に適合した人々にあたります。彼ら彼女らは、メインの4名に対して「てかあそこって本当に仲良いよね」だの「浮いてると思う」だの「よくわからない」だの言います。日常系アニメで主に描かれるコミュニティというのは、「まともな人々」から見たらこんなもんです。

これは批判とか自虐ではなくて、だからこの作品はメッチャ面白い!という話なのです。『ぬるめた』はこうした方法で、現代に即した「日常」の価値、これからの「日常」の価値を描こうとしているのです。

 

ぬるめた以外

6巻の話をします。やはり、6巻で一番重要なのは、巻の最終話である#69「ぬるめた以外」です。この話のために6巻の全てが構成されています。なんなら上に述べたぬるめたの強味のすべてがここに効いてきているのではないでしょうか。

 

 

このツイートを見るだけで泣きそう。

 

先ほどまで述べてきたように、ぬるめたはメインキャラクター以外のクラスメイトの描写を通して、日常系に対する現実的な目線を内在化してきました。「ぬるめた以外」というサブタイトルからもわかる通り、この回、ひいては6巻全体を通して、優花というキャラクターを介して、ぬるめた以外から見たぬるめた、「日常系」の外から見た「日常系」という主題が描かれています。

ハンバーガー店で偶然出会った2つのグループは、まともな会話を交わしません。アンドロイドくるみ、というフィクションすぎる存在は、メインキャラクターのグループを発見した瞬間、「配慮のできるクラスのマスコット」から「謎すぎる変身をする日常系漫画のボケ役」になります。裏から見えるタイトルロゴ・サブタイトルも、露骨すぎるほどにこの残酷さを描いています。優花も、他のみんなもドン引いています。

優花の目線からしたら、本当につらいことかもしれません。魅力的に想った女の子に、自分には到底理解できない、取るに足らない謎の論理でつながり合っている友達がいて、しかも自分はその価値観を全く理解できない。さらに、その子に対する自分のありかたを「キモい」という形でしか自分で処理できない。結局優花は、6巻の最後に、くるみに自分たち「常識的な集まり」と、「日常系の集まり」を天秤にかけることを迫り、案の定玉砕します。「本気で言ってる?本気で言ってるか」というセリフには、直前に見せつけられた「日常系」の意味不明さ、理解不能さと、そのなかで楽しそうにはしゃぐくるみの姿によって見せつけられた失望がはっきりとにじんでいます。

 

繰り返しになりますが、社会的に見てまともなのは優花たちのほうであり、日常系の集まりというのは異常なものです。かたや休みの日には買い物に出たり、計画性をもって海にいったりするハイカーストグループと、かたやネト麻で昼夜逆転して深夜散歩、電気のついていない部屋で通話繋いでネトゲするグループ。6巻のエピソードは、それぞれのあいだにある違いを、背景事情がどうとか性格がどうとか、そういったものを超えた感覚的な部分で常に私たちに突きつけてきます。

 

でも、僕たちは日常系が好きなんです。それが僕たちの「日常」です。

 

どれだけ冷めた目線を描き出されても、どれだけ陽キャ陰キャの差を見せつけられても、どれだけ日常系の現実を突きつけられても、僕たちはいままでもこれからも『ぬるめた』を楽しみます。その強度を、信じている「人生」、「生きがい」の強度をくるみちゃんは私たちにまた教えてくれているのです。

くるみちゃんが優花に対して「ごめんね」と言ってくれること、千明に会ったら目を輝かせて子ども(のアンドロイド)らしくはしゃぎまくってくれること。それが私たちに対する救いであり、私たちだけが持つことが出来る「くるみちゃん」という独自の価値なのです。

 

(脇に逸れた話になりますけど、6巻p85右下のコマが精神的にめちゃめちゃグロくて、こんなことつらつら書いてるくせにちょっとしょげました。今回の内容と照らしたとき、非常に素晴らしいコマだと思います)

 

あとがき

ということで今回はここまで

 

ちょっと前に「最近のアニメ、カースト下位の陰キャを上位層まで引き上げることが『正しい』みたいな論理でばかり作られていてしんどい」(意訳)みたいなツイートを拝見しました。アニメや漫画が、「オタク」たちだけのものだった時代はとうに過ぎ去り、一般化のなかでマジョリティの考え方に沿った論理で作られる作品が増加した、とも。これは正直そのとおりだと思います。そして仕方ないことだとも思います。

しかし、逆に考えるとこれはチャンスなのではないでしょうか。『ぬるめた』をはじめとする日常系作品は、マイノリティに寄り添うためのジャンルの強度をもっています。社会的弱者に対するケア、新たな地平の紹介、生きる活力の提供。そうしたやさしい手を、説教臭くないかたちをもって差し伸べることが、日常系作品には可能なのではないかと思います。

 

それでは!