大場ななについて【少女☆歌劇 レヴュースタァライト】
この記事は何?
「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」。公開から約4か月間にわたって全国の劇場で上映され続け、筆者を含む多くの観客を虜にした作品である。
インターネット上では、観客たちによる熱のこもった感想記事や考察記事が数多く公開され、この作品の知名度と名声を上げる助けとなっていった。
しかし、それらの解釈を詳しく読んでいくと、「大場ななに関するある1シーンの解釈」において、対極に位置する2パターンの解釈が存在することに気づいた。
この記事では、そのシーンの解釈に筆者なりの回答を出すことを目標に、大場ななという存在についても紐解いていきたいと思う。すこし長い記事になってしまったが、最後までお付き合い頂ければ幸いだ。
※この記事は、「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」および「ロンド・ロンド・ロンド」のネタバレを含んでいます。特に、「劇場版」を観ていない方にはお勧めできません。また、この記事の内容はあくまで筆者の個人的な解釈です。他の解釈を貶める意図はございません。以上のことをご了承の上、記事をお読みください。
- この記事は何?
- 1.「皆殺しのレヴュー」とは?
- 2.「大場なな」という役者と、「大場なな」という舞台装置
- 3.「レヴュースタァライト」を。
- 4.「レヴュースタァライト」の「大場なな」
- 5.「ロンド・ロンド・ロンド」という作品とは?
- 6.「皆殺しのレヴュー」という脚本
- 7.あとがき・筆者所感
1.「皆殺しのレヴュー」とは?
さて、前書きで触れた「ある1シーン」とは、皆殺しのレヴューのことである。
強烈な光を放つライトを多用したアクション映画さながらの演出と、舞台少女たちが文字通り「皆殺し」にされるという衝撃的な展開によって、私たち観客の度肝を抜き、意識を「ワイルドスクリーンバロック」に注ぎ込ませる、印象的かつ重要なシーンだ。
このレヴュー中の、大場ななの感情について、対極となる二つの解釈を見ることができるのだ。すなわち、「大場ななは、どうして皆殺しのレヴューを起こしたのか?どういう感情で剣を振るっていたのか?」という問いに対しての解釈である。
二つの解釈を、それぞれ紹介しよう。
解釈A.「舞台少女に死を避ける転機を」
「皆殺しのレヴューは、舞台少女の死を再演の果てに目にした大場ななが、死に瀕する99組舞台少女に喝を入れ、再起の契機とするために開いたレヴューである」。
大場ななは、死にゆく舞台少女たち──仲間たちの死を目の当たりにし、その原因が彼女ら、そして自分の内面にあると見抜き、それらの解消の転機とするため、彼女たちを醜い死から救う。大場ななの使命感と前に進まなければならないという想いから生まれたのが皆殺しのレヴューである、ということだ。
根拠としては、その前後の彼女のセリフや、レヴュー曲wi(l)d-screen baroqueの歌詞などが挙げられる。
・「私たちは、見つけなければならない。次の舞台を」「(私たち)もう死んでるよ」
大事なのは「私たち」という語である。つまりは大場なな自身も、自分の問題点を認識し、そして「次の舞台」...未来に生きている自分たちを見つけなければならない、と言っている。発破をかけていると言ってもいい。
・「ねえ本気出そうよ」
これも上のセリフと同じく、舞台少女たちを叱咤し、鼓舞し、自分の現状を理解させて前を向かせる歌詞のように聞こえる。
解釈B.「どうせ死ぬなら美しいままの死を」
「皆殺しのレヴューは、舞台少女の死を再演の果てに目にした大場ななが、その死の醜さから99組舞台少女を守るために、どうせ死ぬのなら今、「舞台少女として美しい状態の死」を与えようと開いたレヴューである」。
大場ななは、テレビアニメシリーズの頃から変わらず大きなエゴを抱えたままであり、舞台少女の死を知ったことでそれが解放され、「守る」「醜い未来に向かわせない」「美しい今をずっと...」また同じ過ちを繰り返す。後ろ向きの感情に支配された、大場ななのエゴの発現。または、自ら死んでいく舞台少女たちに対しての怒りの結露。それが皆殺しのレヴューである。
根拠は、この後行われる狩りのレヴューにある。
星見純那に切腹を求める彼女は、再起を促しているわけでは全くなく、「今ここで死ね」と言っているのである。大場ななの考え方がこの二つのレヴューの間という短期間で変わっているわけでなかったら、解釈Aではこのレヴューについて説明ができない。
この二つの解釈は、彼女の感情の方向という点に置いて対極に位置する。解釈Aにおいて、大場ななは未来を見据えている。前に進んでいる。解釈Bにおいて大場ななは未来から目を背けている。後ろを向いている。にもかかわらず、どちらの解釈もある程度の強度を持った根拠に裏付けられ存在している。そして、どちらの解釈を採るかによって、この皆殺しのレヴューが作品内で持つ意味も変わってくる。解釈Aを採るなら、このレヴューは真に彼女らの転機として起こされたものになる。解釈Bを採るなら、このレヴューは本当は彼女らを再起不能にするために起こされたものであり、それが結果的に彼女らの転機になってしまった、という意味合いになる。
前向きな感情と後ろ向きな感情を併せ持つという解釈は、現実ならまだしも物語の登場人物の読解としてはあまり適さない。特にレヴュースタァライトという作品は、登場人物の感情の一貫性について真摯である。解釈の同時解決は難しいだろう。ならば、どちらがより「正しい」解釈なのか?大場ななはどのような思いで皆殺しのレヴューを行っていたのか?
2.「大場なな」という役者と、「大場なな」という舞台装置
この問題を解決するため、まずはテレビアニメシリーズにおける「大場なな」が持っていた特徴について話さなくてはならない。
これに関してはこちらのブログが詳しいため、引用させていただく。
テレビアニメシリーズ第7話の読解を行っているブログである。
terry-rice88injazz.hatenablog.jp
今回の記事ではこの『登場人物』と『キャラクター』という区別を可能な限り、明確に分けたい。本記事においてのこの区別は分かり易くいえば、物語上に生きる人間と物語構造においての「記号」である。前者はもちろん、物語という「世界」において息づく人間である。我々となんら変わらない生活をする、架空の存在だが人間として作品世界に描かれる存在の事を指す。一方、後者は物語進行においての一種の機能である。描かれる物語があって、その物語を動かすために配置された歯車、あるいは展開上、不可欠な役割を与えられた部品といっても過言ではない。少なくとも後者においては、物語を彩る人間的な魅力が乏しいと言える。あくまで物語という機構を稼動させるための一部品でしかないからだ。
ここでもばななは変わらず、カメラ越しに見える「世界」を物語の枠外から眺めている。カメラのフレームに収められた映像も主要な登場人物たちといわゆるモブキャラクターたちが混在する絵面になっているのは、枠外の人間たちであるモブキャラ(記号)の性質を持つ彼女のゆえだろうか。他方、彼女はまた「登場人物」としての個性もあるので、最後の画面でモブキャラが消えて、登場人物たちだけが写る画面になるのも納得する。
この「キャラクター(記号)」と「登場人物」という二面性はばななの抱える不安定なゆらぎである、とここまで言葉を変えて繰り返し語ってきた。この不安定さこそ、大場ななという存在の物語における特質であり、問題点だからだ。
詳しくは割愛するが、つまるところ、大場ななは「物語を演じる役者(物語の中の存在)」と「物語の舞台装置(物語の外の存在)」の二つの役割を持っていた存在なのだ。その二面性が彼女を彼女たらしめており、彼女の物語での問題点でもあった。
その問題点は、天堂真矢に指摘され、神楽ひかりと愛城華恋に斬られ、そして、星見純那に肯定される。9話のラストシーン、優しく流れるピアノの中、聖翔音楽学園の庭で星見純那に優しく抱かれたあの瞬間、「再演を繰り返した舞台装置としての大場なな」も彼女の個性となり、彼女の役者としての個性と一体化したのである。
その部分は、言語化するまでもなく視聴者が感じとっていたことだろう。今回この記事において覚えておいてほしいことは、「もともと彼女は『役者』と『舞台装置』の二つの要素を持っていた」ということである。そっくりそのまま、「舞台俳優科と舞台創造科の二刀流」と重ね合わせてしまってもいい。
3.「レヴュースタァライト」を。
もう一つ、大場ななという存在を考える糸口として、劇場版内の1つのセリフを挙げる。
演じきっちゃった、「レヴュースタァライト」を。
──愛城華恋
「レヴュースタァライト」の一つの終わりを告げる、重要なセリフである。
この直前のシーン──約束タワーにおいて、愛城華恋が「観客」を認識したのを覚えているだろう。「客席はこんなに近かったのか、スポットライトはこんなにも熱かったのか」という怯えを含んだ気づき。それはつまり、彼女たちの人生が「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」という舞台であることへの気づきである。有り体に言えば「第4の壁」の認識、気づきだ。
彼女の「再生産」において、彼女は彼女自身が「レヴュースタァライト」の役者であることを認識し、肯定した。その結果が先ほど挙げたセリフであり、そのセリフは、私たちにも彼女が「レヴュースタァライト」の役者であることを認識させた。
──愛城華恋は、彼女らの人生の一部を描いた舞台、「レヴュースタァライト」の登場人物にして、意思をもつ役者である──
一つ問いがある。これは愛城華恋にだけ当てはまることなのだろうか?
単純に考えても、答えは否である。愛城華恋だけがあの舞台の役者ではない。「観客」を認識しているかどうかに違いはあるかもしれないが、神楽ひかりも、露崎まひるも、石動双葉も、花柳香子も、天堂真矢も、西條クロディーヌも、星見純那も、そして、大場ななも、「レヴュースタァライト」を演じる役者だ。彼女らもまた、「レヴュースタァライト」をよりよいものにするために必死で演じて、歌って、踊って、奪い合ってきたのだ。まるで聖翔祭の「スタァライト」を創るかのように。
薄々感づいてきた読者もいるかと思う。そろそろ本記事の核心をつこう。
4.「レヴュースタァライト」の「大場なな」
舞台少女たちは、まるで「スタァライト」を演じる役者であることと同じように、「レヴュースタァライト」を演じる役者であった、と書いた。「スタァライト」を創ることと「レヴュースタァライト」を創ることは広義において同じことなのだ。
では、大場ななは?彼女は、「スタァライト」を演じる役者であると同時に、「スタァライト」の舞台演出を手掛ける人間であった。ということは、「レヴュースタァライト」を演じる役者であると同時に、「レヴュースタァライト」の舞台演出を手掛けている、と考えることができる。
つまり、彼女は「レヴュースタァライト」において、役者としての自分と、舞台演出者、脚本家としての自分を両方持ち合わせている存在なのである。「レヴュースタァライト」の脚本に携わる存在なのである。
これがどういうことかというと、役者としての彼女の行動は、舞台演出としての彼女の思考によって規定されるということだ。役者としての彼女の思考や感情に矛盾のないように、あくまで自然に、舞台演出者・脚本家としての彼女が「レヴュースタァライト」の脚本を書いているという状況がそこにあるのだ。
難しく考えなくてもいい。彼女は脚本を書いているだけだ。その脚本が、自分が自分として出演する舞台のためのものだっただけの話である。第三者視点で自己や自己の置かれた環境を捉えなおしているのと同じだ、と考えるのもわかりやすい。
この説を補強するため、もう一つ重要な作品について見ていこう。
5.「ロンド・ロンド・ロンド」という作品とは?
本来裏方であり、決して舞台上には出てこないはずの脚本家。だが、「レヴュースタァライト」の脚本家としての大場ななを、観客である私たちは「ロンド・ロンド・ロンド」に見つけることができる。青く眩しい光の中の地下劇場。レヴューとレヴューの間に挟まる、キリンと大場ななの会話。第100回聖翔祭、そしてそれに至るまでの過程であるオーディションの数々──「テレビアニメ 少女☆歌劇レヴュースタァライト」を見ながら彼女が行っていることとは何か?
全てから超然したような態度、懐かしむような語り口、批評家のような声色、「本番五秒前」、「待ってたよ、ひかりちゃん」。
...大場なながしていたのは、脚本作業に欠かせないステップ────「前作の復習」「記録の整理」「次回作の推敲」ではないだろうか?だとするならば、「ロンド・ロンド・ロンド」という作品は、「大場なな」の脚本作業...既作の内容を見直し、新しい意味を見出し、その物語を「再生産」していた姿なのではないだろうか?
そして、彼女は気づいた(気づかされた)のだ。この物語の先には、問題点が治らないまま、醜く死んでいく舞台少女の姿が描かれてしまうと。眩しかったあの日々が、本当の意味で過ぎ去ってしまうと。だから、脚本家としての彼女は、推敲の果てに、「舞台少女の死」を避けようと脚本を書き始めたのだ。
(余談だが、このように「ロンド・ロンド・ロンド」を捉えると、あの作品の中に描かれるレヴューとテレビアニメシリーズで描かれたレヴューの演出の差異は、大場ななの手によって再編集されたものだと推測できる。どのシーンをカットして、どのシーンに手を入れたか、なぜそうしたのかについて、大場ななの感情を元に想像することができるのだ。
「The Star knows」のあの歌詞はなぜカットされたのか?渇望のレヴュー後のやりとりがカットされたのはなぜ?「星々の絆」の最後の歌詞は、なぜ愛城華恋パートから大場ななパートに変更になったのか?などの理由を推し量るのも楽しい。)
6.「皆殺しのレヴュー」という脚本
これらを踏まえて、冒頭の問いについて考えてみる。大場ななはどのような感情を持ちながら皆殺しのレヴューを行っていたのか?皆殺しのレヴューとはどういったレヴューだったのか?
結論を先に述べる。
解釈C:「脚本家・大場なな」が、舞台少女たちの転機となるように「皆殺しのレヴュー」という脚本を書き(解釈A)、「大場ななが舞台少女たちをここで美しいまま殺したかった」(解釈B)という理由を設定した
・まず、「舞台少女の死」を見た脚本家の大場ななが、それを避けるために、舞台少女たちを死から救う転機としての「皆殺しのレヴュー」を計画する。
・しかし、その動機は役者としての大場ななの感情と一致しない。客観的にみた彼女は、未だ大きなエゴを持ち、思考の根幹が変わっておらず、到底「前を向かせる」という考えを抱かない人物である。
・だが、死を避けるためには、皆殺しのレヴューは必要だ。そこで、役者である大場ななの感情と合致する「彼女が皆殺しのレヴューを開催したのは、裂けられない舞台少女の醜い死から彼女らを守るために、美しいままの死体にしてあげたかったから」という解釈になるように脚本を書いた。
...ということである。これなら、解釈Aと解釈Bが同時に発生することにもうなずける。「脚本家・大場なな」の考えを汲んだ解釈Aと、「脚本家・大場なな」が想定した、「役者・大場なな」についての解釈Bという関係が、二つの解釈の間に存在したのだ。
筆者の結論である解釈Cにおいて、皆殺しのレヴューの間の実際の大場ななの心境というのは、「脚本家・大場なな」の「このレヴューが舞台少女たちの転機となりますように」というものであり、解釈Aと一致する。だがそれは私たち「脚本家・大場なな」の存在を知っている観客からこそ出てくる解釈であり、言うなれば「物語的都合」の解釈である。舞台に生きる人物である「大場なな」の思考を読み取るときは、解釈Bが読み取れる構造になっている。
青い光に眩しく照らされた地下鉄の中、大場ななが支配するレヴューが行われる。それはこの「レヴュースタァライト」という舞台の存在を理解し、どうやってよりよい結末を迎えればいいかを推敲し、その結果を実行するための、脚本家からのゲキ。
脚本家としての仕事を完遂した大場ななは、そのあと行われる決起集会中、こんなセリフを吐く。
私も、戻らなくちゃ。あの頃の役に────
...「大場なな」という役者に。
言うまでもなく、この後行われる狩りのレヴューは、星見純那の覚醒のためであると同時に、物語の登場人物としての大場ななの人生のためのレヴューである。登場人物としての大場ななは、自らのエゴと視野狭窄から解放され、前を向きバミリから足を踏み出す。そして、愛城華恋によって「レヴュースタァライト」が演じ切られたとき、大場ななもまた、「レヴュースタァライト」の脚本から解放されたのである。
こうして、大場ななは、舞台役者と舞台演出の二刀流を見事に演じ切った。彼女は、同じく死から逃れた舞台少女たちと同じように、自分の人生という舞台を生きていく。
7.あとがき・筆者所感
あんまり上手く書けた気がしない。自分の中ではまとまっているはずなのだが、文章にしようとするとどうしても構造の感覚を伝えるのが難しく、変な文章になっている気がする。伝わればいいんだけど。
どうして大場ななは「レヴュースタァライト」の演出に関われているのか、いつから関わっているのか、どこまで干渉できるのか、などにも自分なりの答えはあるのだが、こちらはまだ完璧な理解ができていないのと、本筋から外れるのとで記していない。今考えていることを簡潔に言ってしまえば、「愛城華恋が新章を始めたのに演出家がいないから」なのだが、どうも納得いく文章にならない。気が向いたら追記として同じ記事に書き残すかもしれない。(でもこの記事全7章かつ7777文字になったから崩したくないんだよね)(自己満足)
最後に、古川監督の(カレー用)Twitterアカウントで、8月中旬に行われたファンとの一問一答から、一つの質疑応答を引用させていただく。現在該当アカウントは監督の手によって削除されているが、散逸防止のためTogetterに有志によってまとめられているので、そちらを参考にしている。
3ページ目より。
古川監督に質問です。 今回の劇場版でのばななは喋りすぎなみんなを叱咤したり華恋を導いたりとキャラ紹介にもあるようにある意味「お母さん的」だなと思いましたが、やはりそういった行動の中心にあるのは「優しさ」なのでしょうか? 彼女は何を思い電車の上で剣を振るっていたのでしょうか?
「彼女は何を思い電車の上で剣を振るっていたのでしょうか?」 そこは一番美味しいところなので、あなたの視聴体験を大事にして下さるのが一番です
めちゃめちゃ美味しかったです、監督。
この問いを考えている間、「レヴュースタァライト」自体の構造をはじめとし、さまざまな要素に思考が飛んで、たくさんの発見を得た。ここには示していないものだってある。これからもこういう感じの文を何個か書けたらいいと思う。喰らい、足掻き、歌って、踊って、奪い合おう。まずBlu-rayと再生機器を揃えなくちゃ...
それでは!